自分を知ろうとすればするほど、自分が陥っている罠が見えてきます。
ものが見えるようになるのは悪いことではないのでしょう。自分が科学的・理性的・合理的な考え方や行動を批判するやり方にも、科学的・理性的・合理的な囲い込みや硬直した仕組みが隠れているとしたら、とりあえずこの堅苦しい囲い込みや仕組みから脱出する努力を始めましょう。
こうした文章なんか書いてないで、外に出かけて気分を変えるのもいいですが、それだけでは逃げているだけですから、もう少しポジティブなことをしてみます。たとえば若い頃から理屈っぽいだけの文章しか書けなかった小説で、理屈から一歩踏み出したものを書いてみるとか、そのヒントとか刺激になるものを読んだり見たり経験したりしてみるといったことです。
ヒントになりそうなものはたくさんあります。
たとえばフランスのマルセル・プルーストという作家が20世紀初頭に書いた『失われた時を求めて』という作品があります。これは中年に達した主人公が、自分の子供時代から経験したこと、家族や知人たちとの交流を振り返りながら、その過程で触れた色々な芸術とその方法論、自分や色々な知人たちの、自分では意識していない心の動き、特に同性愛者たちの心理と周囲との関係の分析、色々な場所の名前から解きほぐす記号論といった様々なテーマが果てしなく展開されていくという、当時としては非常に斬新な作品でした。同時代のアイルランド人作家ジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』と並んで、それ以後の小説を大きく変えた作品と言われています。
『失われた時を求めて』の革新的な点は色々ありますが、ひとつはそれまで小説がフィクション、ストーリーの枠組みの中で展開されるものだったのに対して、そういう枠組みを崩して、現実の世界と小説の世界を自由に行き来するという書き方になっている点です。
19世紀ロシアの作家ドストエフスキーの後期の長編にも、登場人物たちの会話が、小説の会話という枠組みを逸脱して、当時の宗教・思想・政治的なテーマを延々議論しているものがありますし、最後の作品『カラマーゾフの兄弟』などはほとんど思想・哲学の対話劇みたいになっていますが、プルーストはドストエフスキーの影響を受けながら、もっと自由に現実世界の社会現象や人々の考え方を作品に取り込めるようにしました。
哲学や思想、精神分析学などの専門家たちから見ると、その語り方は論理的にいい加減だということで、色々批判されたりもしたようですが、それは専門家たちの科学的・理性的・合理的な緻密さに、プルーストが息苦しいもの、人間の意識を封じ込めて殺してしまうものを感じ、あえてそこから逃れながら語ろうとしたからです。
たとえば哲学者は空間と時間について語りますが、そのとき空間も時間は固い論理の中の概念として扱われています。カントの『純粋理性批判』のような、近代哲学の源流をなす思想の大伽藍を読んだとき僕が感じたのは、色々なことが学べたと同時に、硬くて冷たい廃墟に閉じ込められたような感覚でした。特にそれは人間にとっての時間がどういうものなのかについて、ただ触れられているだけで、納得のいく解説がされていないことからくるものだったかもしれません。
ハイデガーはそれから100年くらい後に『存在と時間』で、人間にとっての時間がどういうもので、意識・認識の中でどんなふうに感じられたり作用したりするのかを詳細に解説しましたが、学生時代にそれを読んだとき、僕はそれに納得はしても、そこに時間そのものはないと感じました。
カントが言うように、時間は空間と共に、人間が何かを認識するときの基本的な条件・要素であり、状態だと僕も思いますが、人間にとって時間はあまりにも生きていて、生きている人間の感覚や意識そのものなので、論理的に語ったり定義したりした途端、失われてしまいます。
プルーストが『失われた時を求めて』で、はっきりしたロジックも方法論もなく、果てしなく、悪く言えばダラダラと、いろんなことを語っていくその身振り、動きは、そうすることでしかとらえられない時間をとらえようとする試みでした。
科学的・理性的・論理的になった近代人は、硬直した仕組みに順応することで、自分がたしかに存在していて、考え行動していると感じさせてくれる時間を取り逃しながら生きています。プルーストが提案したのは、そうした仕組みから離脱して、自由に語っていくことそのものの中に、時間を再び取り戻すチャンスがあるということでした。
『失われた時を求めて』とタイトルでうたっていながら、作品の中で「時間はこれこれで、それはどうして失われ、どうやって取り戻すのか」といったことは一切語られていませんが、それは定義したり論理的に説明したりすると、時間が失われてしまうからです。小説ともエッセーとも瞑想中に浮かんでくる意識の流れとも見えるような、果てしない言葉のつらなりによって、初めて時間はとらえることができるわけです。
ものごとを科学的・理性的・合理的に統合しようとするルールの支配から脱出した意識は、色々な領域でそれぞれの時間の中を動き回り、それらの領域を行き来します。
『失われた時を求めて』を読むとき、読者はこうした領域間の横断や行き来を体験しながら、自分が見失っていた時間を感じ、そこで出会う色々な概念がものごととして存在し、生きていることを感じます。
『なぜ世界は存在しないのか』では、現代の美術や小説や映画やテレビドラマを例にとりながら、近代の人間の意識を拘束し、支配している仕組みから脱出し、自由に感じたり考えたり行動したりするためのヒントを紹介しています。それは現代人が見失った自分を再び発見するためのヒントでもあります。
自分を見失い、不安を感じている人は、とかく「あなたは今までだまされてきたんだ。世界はほんとはこうなんだ」とわかりやすい統一された世界像を提示されると、それに飛びついてしまいがちですが、それこそまやかしの宗教やファシズムやポピュリズムの罠にはまることです。
迷っている私たちがやるべきことは、自分がどんな仕組みに拘束されているのかを含めて、自分がどういう状態にあるのかを知り、そこから脱出して、いろんな領域のいろんな価値観、考え方を横断したり、比較したりできるようになることです。
最近は「多様性の時代」ということがよく言われ、いろんな価値観があることを認めなければならないと多くの人が考えるようになりました。しかし、ただ多様性を容認するだけで、人は自由になれるわけではありません。多様性を容認することも、統合的なルールにすぎないからです。人種や宗教や国籍、性、性愛の嗜好はどれも平等で差別してはならないというルールは、あらゆる人間を労働力として活用して資本を増殖する資本主義経済の支配のためのルールにもなります。
自由主義・資本主義経済の支配下で、あらゆる人間は平等ですが、それだけでは人種間、宗教観、国家間、ジェンダー間、性愛のスタイル間の違いや独自性を、人間が理解し合い、自由に考え、行動することにつながることはありません。
むしろ、膨大な情報や知識と同様に、そうした差異やその平等というルールをメカニズムとして受け入れ、それに従って生きるだけになってしまう危険があります。現代の人間は、経済のゲームのプレーヤーであり、経済のルールに分断された状態で生きています。そこから脱出する行為もまたゲームとして作品化され、商品化されています。
少しでも得をするために経済のゲームだけに集中し、芸術を受身で鑑賞しているだけでは、科学的・理性的・合理的な仕組みの支配から自由になることはできないでしょう。誰もがある程度、自らアーティストにならないかぎり、脱出のチャンスはないのかもしれません。
70歳手前の僕はもう自分に芸術家の才能がないことを知っていますが、それでも一番得意な言葉で記述することをやめないのは、やめてしまったらチャンスを自分から逃げてしまうことになるからです。
僕が書くものは『失われた時を求めて』とは違ったものになるでしょうが、これからも自分も含めてあらゆる考え方を疑いながら、少しでもいろんな考え方やものごとを自由に、横断したり行き来したりするような書き方で文章を書いていきたいと思います。