イージーライターのつぶやき

おもに歴史と美術がテーマの旅行日記です。

自分を知る試み43 失われた時間の再発見


自分を知ろうとすればするほど、自分が陥っている罠が見えてきます。

ものが見えるようになるのは悪いことではないのでしょう。自分が科学的・理性的・合理的な考え方や行動を批判するやり方にも、科学的・理性的・合理的な囲い込みや硬直した仕組みが隠れているとしたら、とりあえずこの堅苦しい囲い込みや仕組みから脱出する努力を始めましょう。

 

こうした文章なんか書いてないで、外に出かけて気分を変えるのもいいですが、それだけでは逃げているだけですから、もう少しポジティブなことをしてみます。たとえば若い頃から理屈っぽいだけの文章しか書けなかった小説で、理屈から一歩踏み出したものを書いてみるとか、そのヒントとか刺激になるものを読んだり見たり経験したりしてみるといったことです。

 

ヒントになりそうなものはたくさんあります。

 

たとえばフランスのマルセル・プルーストという作家が20世紀初頭に書いた『失われた時を求めて』という作品があります。これは中年に達した主人公が、自分の子供時代から経験したこと、家族や知人たちとの交流を振り返りながら、その過程で触れた色々な芸術とその方法論、自分や色々な知人たちの、自分では意識していない心の動き、特に同性愛者たちの心理と周囲との関係の分析、色々な場所の名前から解きほぐす記号論といった様々なテーマが果てしなく展開されていくという、当時としては非常に斬新な作品でした。同時代のアイルランド人作家ジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』と並んで、それ以後の小説を大きく変えた作品と言われています。

 

『失われた時を求めて』の革新的な点は色々ありますが、ひとつはそれまで小説がフィクション、ストーリーの枠組みの中で展開されるものだったのに対して、そういう枠組みを崩して、現実の世界と小説の世界を自由に行き来するという書き方になっている点です。

 

19世紀ロシアの作家ドストエフスキーの後期の長編にも、登場人物たちの会話が、小説の会話という枠組みを逸脱して、当時の宗教・思想・政治的なテーマを延々議論しているものがありますし、最後の作品『カラマーゾフの兄弟』などはほとんど思想・哲学の対話劇みたいになっていますが、プルーストはドストエフスキーの影響を受けながら、もっと自由に現実世界の社会現象や人々の考え方を作品に取り込めるようにしました。

 

哲学や思想、精神分析学などの専門家たちから見ると、その語り方は論理的にいい加減だということで、色々批判されたりもしたようですが、それは専門家たちの科学的・理性的・合理的な緻密さに、プルーストが息苦しいもの、人間の意識を封じ込めて殺してしまうものを感じ、あえてそこから逃れながら語ろうとしたからです。

 

たとえば哲学者は空間と時間について語りますが、そのとき空間も時間は固い論理の中の概念として扱われています。カントの『純粋理性批判』のような、近代哲学の源流をなす思想の大伽藍を読んだとき僕が感じたのは、色々なことが学べたと同時に、硬くて冷たい廃墟に閉じ込められたような感覚でした。特にそれは人間にとっての時間がどういうものなのかについて、ただ触れられているだけで、納得のいく解説がされていないことからくるものだったかもしれません。

ハイデガーはそれから100年くらい後に『存在と時間』で、人間にとっての時間がどういうもので、意識・認識の中でどんなふうに感じられたり作用したりするのかを詳細に解説しましたが、学生時代にそれを読んだとき、僕はそれに納得はしても、そこに時間そのものはないと感じました。

 

カントが言うように、時間は空間と共に、人間が何かを認識するときの基本的な条件・要素であり、状態だと僕も思いますが、人間にとって時間はあまりにも生きていて、生きている人間の感覚や意識そのものなので、論理的に語ったり定義したりした途端、失われてしまいます。

 

プルーストが『失われた時を求めて』で、はっきりしたロジックも方法論もなく、果てしなく、悪く言えばダラダラと、いろんなことを語っていくその身振り、動きは、そうすることでしかとらえられない時間をとらえようとする試みでした。

 

科学的・理性的・論理的になった近代人は、硬直した仕組みに順応することで、自分がたしかに存在していて、考え行動していると感じさせてくれる時間を取り逃しながら生きています。プルーストが提案したのは、そうした仕組みから離脱して、自由に語っていくことそのものの中に、時間を再び取り戻すチャンスがあるということでした。

 

『失われた時を求めて』とタイトルでうたっていながら、作品の中で「時間はこれこれで、それはどうして失われ、どうやって取り戻すのか」といったことは一切語られていませんが、それは定義したり論理的に説明したりすると、時間が失われてしまうからです。小説ともエッセーとも瞑想中に浮かんでくる意識の流れとも見えるような、果てしない言葉のつらなりによって、初めて時間はとらえることができるわけです。

 

ものごとを科学的・理性的・合理的に統合しようとするルールの支配から脱出した意識は、色々な領域でそれぞれの時間の中を動き回り、それらの領域を行き来します。

 

『失われた時を求めて』を読むとき、読者はこうした領域間の横断や行き来を体験しながら、自分が見失っていた時間を感じ、そこで出会う色々な概念がものごととして存在し、生きていることを感じます。

 

『なぜ世界は存在しないのか』では、現代の美術や小説や映画やテレビドラマを例にとりながら、近代の人間の意識を拘束し、支配している仕組みから脱出し、自由に感じたり考えたり行動したりするためのヒントを紹介しています。それは現代人が見失った自分を再び発見するためのヒントでもあります。

 

自分を見失い、不安を感じている人は、とかく「あなたは今までだまされてきたんだ。世界はほんとはこうなんだ」とわかりやすい統一された世界像を提示されると、それに飛びついてしまいがちですが、それこそまやかしの宗教やファシズムやポピュリズムの罠にはまることです。

 

迷っている私たちがやるべきことは、自分がどんな仕組みに拘束されているのかを含めて、自分がどういう状態にあるのかを知り、そこから脱出して、いろんな領域のいろんな価値観、考え方を横断したり、比較したりできるようになることです。

 

最近は「多様性の時代」ということがよく言われ、いろんな価値観があることを認めなければならないと多くの人が考えるようになりました。しかし、ただ多様性を容認するだけで、人は自由になれるわけではありません。多様性を容認することも、統合的なルールにすぎないからです。人種や宗教や国籍、性、性愛の嗜好はどれも平等で差別してはならないというルールは、あらゆる人間を労働力として活用して資本を増殖する資本主義経済の支配のためのルールにもなります。

 

自由主義・資本主義経済の支配下で、あらゆる人間は平等ですが、それだけでは人種間、宗教観、国家間、ジェンダー間、性愛のスタイル間の違いや独自性を、人間が理解し合い、自由に考え、行動することにつながることはありません。

むしろ、膨大な情報や知識と同様に、そうした差異やその平等というルールをメカニズムとして受け入れ、それに従って生きるだけになってしまう危険があります。現代の人間は、経済のゲームのプレーヤーであり、経済のルールに分断された状態で生きています。そこから脱出する行為もまたゲームとして作品化され、商品化されています。

 

少しでも得をするために経済のゲームだけに集中し、芸術を受身で鑑賞しているだけでは、科学的・理性的・合理的な仕組みの支配から自由になることはできないでしょう。誰もがある程度、自らアーティストにならないかぎり、脱出のチャンスはないのかもしれません。

 

70歳手前の僕はもう自分に芸術家の才能がないことを知っていますが、それでも一番得意な言葉で記述することをやめないのは、やめてしまったらチャンスを自分から逃げてしまうことになるからです。

 

僕が書くものは『失われた時を求めて』とは違ったものになるでしょうが、これからも自分も含めてあらゆる考え方を疑いながら、少しでもいろんな考え方やものごとを自由に、横断したり行き来したりするような書き方で文章を書いていきたいと思います。

 

自分を知る試み42 解放の方法


科学的・理性的・合理的なルールが支配する領域では割り切れないものが生まれるとき、人間はそれを芸術とか文学の領域に求めます。マルクス・ガブリエルが『なぜ世界は存在しないのか』で、宗教の次の最終章で芸術について語っているのも、人間にとって科学や合理性で割り切れないものがとても重要で、それを確認できる手段が芸術だからです。

 

科学や合理性で割り切れない部分は、芸術作品を鑑賞しなくても、恋愛とか友情とか憎悪とか、いろんなことを通じて経験できますが、人間はそうしたことをただ感情的・感覚的に体験するだけでなく、小説とかドラマを通じて追体験あるいは疑似体験することで、自分が何者で、どんな世界に生きているのか気づくことができます。音楽や美術も、普段生活の中で漠然と感じていることの背後にどんな意味があるのかを教えてくれたりします。

 

僕は若い頃、小説を書いていて、文芸雑誌の新人賞に応募して、何度か最終選考に残ったこともありますが、結局小説家になれなかったのは、自分の文章があまりにも理屈っぽくて、文学向きでなかったからです。書きながら、自分が書こうとしているものは、こういう書き方では捉えられないと感じていました。自分の書き方を否定しては、新しい書き方を探し、別の書き方で書いては、やはり理屈っぽくなってしまい、行き詰まるといったことを繰り返しました。

 

なぜこんなことになったのか、ずっとわからずにいましたが、『なぜ世界は存在しないのか』の芸術について書かれている章を読んで、ちょっとわかったような気がしました。

 

僕は中学・高校を神戸のカトリック系の学校で過ごしたのですが、社会的・政治的に物心ついたときの最初の敵はカトリックの神父たちでした。

彼らはキリスト教を押し付けようとはしませんでしたが、学校の行事にかこつけてミサのようなことを生徒に体験させてみたり、放課後に「公教要理」という宗教教育の時間を設けて、自由参加というかたちで生徒たちを誘い、教化していました。

 

十代は多感な時期ですから、経験や知識の領域が広がっていくにつれて、不安に駆られるものです。一学年約160人のうち4分の1くらいが6年間のうちに洗礼を受けましたが、僕は結局一度も公教要理に参加せず、洗礼も受けませんでした。4分の3が洗礼を受けなかったわけですから、別に特殊な生徒だったわけではありませんが、多分その頃から文学少年で、ヨーロッパの作品をたくさん読んでいたからでしょう。

 

歴史の中でカトリック教会の高圧的な支配があったことを、かなり強く、真剣に受け止めていました。当時は1960年代で、アメリカがベトナム戦争で非人道的な大量殺戮を続けていて、日本でもアメリカでも戦争反対の運動が広がっていました。

新左翼と呼ばれる学生を中心とした若者がその運動の中心にいましたが、彼らは日本共産党と対立・抗争していて、しかもその新左翼自体が小さな党派に分かれて互いに対立し、暴力沙汰を起こしていました。ソ連が古い抑圧的な社会主義の帝国だということも明らかになっていましたから、すでに社会主義・共産主義は終わっているように見えました。

 

こういう環境で本を読み耽り、文章を書く生活をしていると、ある日空から光のシャワーが降り注ぐのが見えるようになりました。その光の細かな線の一本一本の中に、ベトナムで起きていること、アメリカや日本で起きていること等々が鮮明に見えました。

 

そして、カトリックの神父たちを指し示して、「あいつらが拝んでいる神は偽物だから、奴らから離れろ」という声がしたような気がしました。まあ、思春期の幻想だったんでしょうが、当時の僕は何となく、本物の神と直接交信していると思い込んでいました。

 

だからといってその「神」は何か具体的な行動を指示してきませんでしたから、新しい宗教を打ち立てて布教活動を始めることもなく、ただ世の中のいろんな不都合や不正義と関わらず、まともな人間として生きていくためには、カトリック教会はもちろん、大企業とか国家とか政治団体とか宗教団体とか、あらゆる集団・組織から離れて、自由に孤立無縁で生きていこうと考えるようになりました。

 

学校は進学校で、まわりの生徒は受験勉強して、少しでもいい大学に入り、大企業に就職することをめざしていましたが、僕は勉強をやめてしまい、好きな本だけ読んでいても入れる私立の文学部に進み、小さな出版社と音楽プロダクションに合わせて3年半勤めてからフリーランスのライターになり、企業のパンフレットやホームページなどの文章を書いて生きてきました。

 

小説家になれなかったのは才能がなかったからですが、その才能のなさには、先に言ったように、文章が理屈っぽかったからで、その理屈っぽさとは、言葉で指し示すものの定義と、記述していくことの論理が明確だというところから来ていました。

 

小説を読んでくれた友達に、「小説っていうのは、書いていることの奥に何かあるんだと感じさせるものがなきゃだめなんだよ」と言われたことがあります。それは定義とか論理におさまらず、はみ出してしまうものであり、人間にはそういう科学的・理論的・合理的な枠組みからどうしてもはみ出してしまうものがあるから、それを芸術とか文学で体験したり確認したりしたくなるわけです。

定義や論理が明確な小説というのは、つまりそういうはみ出してしまう部分が欠けているということです。

 

当時の僕はそういう芸術とか文学の機能を本質的なものとは認めず、定義や論理を明確にして読者に提示することで、そのことから読者がある種の違和感を感じることを狙っていたんですが、そういう方法論は理解されませんでした。

 

海外には表現に数理的な法則を持たせたり、ストーリーの中に数理的なことが出てきて、登場人物だけでなく、読者も息苦しいゲームの中に引き込むタイプの小説がありました(アルゼンチンのホルヘ=ルイス・ボルヘスとか、フランスのミシェル・ビュトールといった作家たちの作品です)が、僕の小説の理屈っぽさを批判した友達はそういう作家たちの作品を読んでいませんでした。

 

作品を読んでくれた出版社勤務の先輩は、そういう作家たちを知っていましたが、「ボルヘスは面白いと思うけど、お前のは面白くない」と言いました。

僕とはボルヘスの解釈が違ったのか、あるいはボルヘスくらい突き抜けた才能もないのに、真似しようとしても、クオリティが低くてダメだということだったのかもしれません。

 

美術の世界で20世紀に現れた抽象とか前衛とか言われるジャンルの作品にも、世の中に流布して人間を支配・制御している数理的な、あるいは科学的な仕組みをあえて表現することで、鑑賞者に違和感を覚えさせ、科学的・理性的・合理的な枠組みからはみ出してしまうものを彼らに気づかせる、あるいは彼ら自身の中で描かせるといった狙いや仕組みを持っているものが多々あります。

 

ただ、僕が小説を書いていた1970年代から80年代は、20世紀初頭から60年代までの自由で前衛的な芸術運動が衰退した時期で、科学的・理性的・合理的なシステムが政治や経済から文化まで支配するようになった時期でしたし、特に日本の芸術や文学はそうした自由な表現に対して保守的な態度をとる人たちが支配していましたから、ただ自由で前衛的なだけではダメで、彼らの保守的な価値観から見ても認めざるを得ないようなクオリティでなければ、出版されるところまで行きつけませんでした。

 

それで作家になるのは30代であきらめ、アルバイトのつもりでやっていた企業のパンフレットやホームページの原稿書きに専念し、小説は趣味として書きたいときに書くようになりました。企業のための原稿書きは、定義や論理が明確だったおかげで、大企業や当時急成長していたコンピューター業界、電子機器業界から好評で、生活に困ることはありませんでした。

 

こうして振り返ると、僕の文章は若いときから理屈っぽかった、つまり科学的・理性的・合理的だったわけですが、それはそもそもなぜ、いつから始まったんだろうと考えると、たぶん文学的に目覚めた中学・高校時代に、カトリックの学校にいたことで宗教やヨーロッパを支配してきた原理に敏感になり、ベトナム反戦や日米安保条約といった政治的な問題が世の中全体に強く意識されていた時代だったことから、欧米先進国の資本主義や他の国々を支配しようとする帝国主義といった世界の支配構造を意識するようになったということが大きいでしょう。

 

小説にそうした政治的なテーマを盛り込むことはしませんでしたが、それでも当時の文学、特に日本の文学が扱う世界はとても狭くて、息苦しく感じられたので、そうした支配的な支配構造を支えている人間の精神構造、価値体系そのものを客体化して、突きつけるような書き方がしたいと思うようになり、その精神構造の根底にある科学的・理性的・合理的な原理を描こうとするようになったということだったんでしょう。

 

アメリカにはトマス・ピンチョンとかジョン・バースといった大作家たちがいて、そういう方法で巨大な作品を書いていましたから、自分もそれをめざそうとしたんですが、才能もないのに目標が高すぎたせいで、ろくなものは書けませんでしたし、自分でも書くことが嫌になってしまいました。

 

1990年代後半にインターネットが普及して、2000年代になるとプログのサービスが出てきて、誰でも手軽に文章や写真を公表できるようになったので、僕も書いてきた小説をアップしたり、日々考えたことをエッセーとしてアップしたりするようになりましたが、こういう手軽で個人的なメディアでも、世界を支配している原理やそこから生まれる問題のことを書かずにいられないのは若い頃と同じです。

 

その書き方が、自分が批判していることの根底にある科学的・理性的・合理的な仕組みに沿って論理的になってしまうのも相変わらずです。

自分を知る試み41 「絶対」という勘違い


 勉強を始めるにあたって僕はまず、歴史を勉強することで、自分が、そして人類が何者で、どんな世界に生きているのかを考えることから始めようと思い、いくつかの本を参考にしながら人類史を振り返ったわけですが、振り返っているうちに、人類とか歴史は一括りにまとめられないものだということに気づきました。そこから、人間がどんな価値観で考え、行動しているのかがとても気になってきました。それが「人類史まとめ」の次に「自分を知る試み」というテーマで勉強を始めた理由です。

 

世界にはいろんな精神構造や価値観が生まれ、それぞれ変遷を重ねてきたし、今世界で多くの人が学んだり考えたりするときに適用している近代ヨーロッパ発祥のセオリーも、歴史の中で生まれてきたいろんな考え方のひとつにすぎません。科学や理性や合理性に基づく近代ヨーロッパのセオリーは、強力なパワーで世界を統一したために、絶対的な真実や正義がそこにあるかのように考えられがちですが、ヨーロッパ人が大航海時代から世界中に商取引の相手を開拓し、植民地を獲得する中で、いろんな文明のいろんな精神構造と出会い、世界は多様だということに気づいたのもヨーロッパの学者たちでした。

 

ヨーロッパの思想家や哲学者たちは、自分たちの考え方を疑い、批判しながら、自分たちがどんな考え方をしているのかを考えました。その中で、これまでヨーロッパ人を支配してきた宗教であるキリスト教や神がどんな精神構造の中で生まれ、維持されるのかを解明しようとする人たちもいました。こんなふうに徹底してすべてを対象として研究するところが近代ヨーロッパの知識人たちのすごさだと改めて思います。

 

しかし同時に、このすべてを徹底して検証するやり方の中に、すでに自分たちの考え方を絶対的に正しいものにしようとする姿勢、自分たちを絶対者にしようとする暗黙の意図、戦略が隠れていることにも気づきました。

 

近代はヨーロッパ人が宗教や神を捨てないまでも、ビジネスの拡大や植民地開拓といった行動をするときだけは、そうした束縛から自由になることを、自分たちに許すようになった時代です。

 

近代まで神は全世界に偏在していて、あらゆる人間のあらゆる行動や考え方、感じ方を支配していましたが、近代以降のヨーロッパ人は宗教や信仰、神を自分たちの精神、心の奥に封じ込め、経済や政治、社会といった外の世界ではそうしたものから自由に考え、行動するようになっていきました。

 

それでもキリスト教も神への信仰も消滅しませんでした。世界的に見ても、地域によって、宗教によって差はありますが、宗教的な勢力の支配は後退・縮小したものの、宗教・信仰はなくなりませんでしたし、近代化への反発からイスラム原理主義が生まれたように、宗教的な力が再生された例もあります。

 

マルクス・ガブリエルも『なぜ世界は存在しないのか』の中で、一通り近代哲学をわかりやすく説明し、統合的で絶対的な世界像が幻想にすぎないこと、そんな世界を作り出してしまうのは、自分が自分であること、自由であることから生まれる重圧や不安から逃れるためであることを暴露しています。そして、そういう統合的なひとつの世界という考え方が、自分たちを縛ってしまい、身動きが取れなくしてしまうと批判しています。

 

つまり近代の科学的・理性的・合理的な考え方は、手段として活用する分には有効だが、それを絶対視してしまうと、そこからかつての宗教のような束縛が生まれるということだと僕は解釈しました。

 

こうした哲学的な批判や問題提起の後に、マルクス・ガブリエルは、宗教について詳しく語っていますが、それは人間の世界が近現代の哲学だけで語り尽くせないからということなんでしょう。

 

科学的・理性的・合理的な考え方が世界を支配する今でも、宗教に惹かれ、信仰を深める人たちがいますし、科学的・理性的・合理的な考え方が世界を支配しているからこそ、それだけでは割り切れないものが強く意識されるようになっているのかもしれません。

 

マルクス・ガブリエルは科学的・理性的・合理的な考え方を絶対視しない立場ですから、こうした宗教に惹かれ、神に帰依しようとする人たちを否定しませんが、いかがわしい宗教や神と、そうでない宗教や神の区別を、哲学のときと同様わかりやすく語っています。

 

まず、人間が作り出したものを絶対視してしまう信仰は、フェティシズムとして否定されます。人間が作った偶像や、人間の教祖を神として崇めるタイプの信仰です。

 

それでは、こうしたまやかしではない、まともな宗教とはどんなものかというと、「わたしたちのもっている『無限なものに対する感性と趣味』の表現」と定義されるようです。神は「概念によって捉えきることのできない無限性という理念」だと。

 

しかし、「かといって、わたしたちがそのような無限性に解消されてしまうわけでは」なく、神とは「どんなものも  たとえわたしたちの理解力を超えていようとも  決して無意味ではないという理念」にほかならないのだそうです。

 

こういうふうに宗教とか神について改めて定義されると、欧米人にとって宗教はやっぱり一神教であり、キリスト教なんだなと感じます。アジア人である僕にとっては、キリスト教も仏教も儒教も、あるいはほとんど馴染みのないヒンドゥー教やイスラム教やユダヤ教も、それほど無限性と感覚的に結びつくものではないからです。

 

ただ、ヨーロッパ人にとっての宗教が、人間的な人格神がたくさん出てくる多神教ではなく、キリスト教徒いう一神教だったことは、決定的なことだったんだなと感じます。

 

一神教は、神が世界全体を生み出し、統合的に支配していると考えます。その神は絶対的に正しく、その支配下で活動する自分たちは、世界中の異教徒を征服し教化するのが使命だと、ヨーロッパ人は世界を征服していく過程で自分たちを正当化することができました。

 

こうした独善的な考え方があまりにも当たり前だったため、あるいはそのやり方で世界征服があまりにもうまくいったため、経済や政治、社会といった現実的な領域で、宗教の影響力が衰えて、科学的・理性的・合理的な考え方が勢いを増していったときも、ヨーロッパ人は自分たちの正当性をこの新しいセオリーに移行して考え、行動することができました。

 

啓蒙主義という科学的・理性的・合理的な考え方が、行動の手段であるだけでなく、そういう考え方を知らない未開人たちを教化し、支配していくときの、信仰のようなものになったのはそのためです。

 

今、僕も勉強しながらあれこれ考えるときに、この科学的・理性的・合理的な考え方を使っていますが、自分がそれを生み出したヨーロッパ人ではないからか、それとも人間の精神にはそもそもこの考え方からはみ出してしまう部分があるからなのかわかりませんが、考えれば考えるほど違和感を覚えてきました。

 

僕自身の考えは何の影響力もないので、どれだけ科学的・理性的・合理的に考えても、何の支配も生み出しませんが、それでも科学的・理性的・合理的に考えたことを記述するだけで、そこには読み手を支配してしまう仕組みが構築されています。

 

何かを語るということは、色々なものごとを定義して、ある論理に沿ってそれらの関係を固定することです。この固定された論理は、人の意識を制御し、支配する最小単位の仕組みになりえるのです。

 

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